
焼肉に行くとき、私は肉を食べたい。以上。……本来ならこれで終わる話である。しかし「焼肉仁助」で皿の上に並んだ肉を見た瞬間、私の中の美食に対する認識論が静かに崩壊した。 店内は落ち着いた焼肉店の空気。卓上には焼き網が鎮座し、目の前には鮮烈な赤と白の霜降り。ユッケらしき一皿には卵黄が堂々と着座し、肉の脂と卵黄の濃厚さが結託している。盛り合わせは部位ごとに肉質が異なり、見た目だけでも「私は今から焼かれるために生まれてきました」という異様な説得力がある。 そして焼く。ジュウ、という音。脂が網に落ち、香気が立ち上る。これは単なる加熱ではない。生肉という可能性の集合体を、火という暴力的な文明によって一皿の完成形へ収束させる儀式である。Guts!! ガツガツ!! と心の中で叫びたくなる。ウマいものが私を呼んでいる。肉を食えば食うほどPowerが湧く。世界中から肉を集めたい。海の底?氷河の果て?いや今日は焼肉店で十分だ。 そして気づく。焼肉には「ガツガツ食べる」という行為そのものに妙な祝祭性がある。Guts!! ガツガツ!! Guts ガツ!! と心拍が上がり、網を見ればJump、肉を返せばKnock、最後には「感謝を込めて、いただきます」となる。釘パンチはできない。やったら店員さんに止められる。だから私は箸で攻める。連発する。肉、肉、肉。これぞ私だけのフルコース。山を食う必要も海を食う必要もない。目の前のカルビを食えばいい。 特に印象的だったのは、霜降りのきめ細かな脂。舌に触れた瞬間、脂がほどけ、赤身の旨味が追随する。厚みのある部位は噛むほど肉汁が広がり、薄切りは表面を軽く炙ることで香ばしさと柔らかさが両立する。この差異は肉質という言葉では足りない。肉には肉の履歴書がある。サシは学歴、赤身は職歴、焼き加減は面接、そして私の胃袋が採用担当だ。全員採用。 そうか、つまり私はそんなやつなんだな。肉を前にすると理性が薄くなる。アウラなら「肉にはアウラがある」と言うだろう。アルハイゼンなら部位ごとの合理性を分析しそうだが、私は分析しながら食べるので結局忙しい。石丸構文で「まず焼肉とは何か!」と問い詰めても、網から脂が跳ねて話が進まない。小泉構文なら「美味しい肉を食べるということは、美味しい肉を食べるということです」。その通りである。反論できない。 さらに卓上のタレ、薬味、塩。これらは脇役ではない。舞台装置だ。肉という主演俳優に対して、タレは脚本、塩は照明、卵黄は突然現れたスポンサーである。菊池風磨なら「これ誰が考えたん?」と言う。ギアッチョなら「なんでこんなに脂がうめえんだよ!」と怒る。クリロナなら努力と言い、K2ならこれは登山だと言う。私は登山をせず、肉を登らせる。網という山へ。 ここから話は営業に飛ぶ。営業とは相手の欲求を理解し、価値を提示し、最後に意思決定してもらう仕事である。焼肉も同じだ。肉に対して「今です」と判断し、裏返し、火を入れすぎず、最適な瞬間に口へ運ぶ。つまり焼肉は営業研修である。9割甘え。残り1割は肉。いや、逆かもしれない。ガンダムが言っている。いや、ガンダムは言っていない。私が言っている。 世界は複雑だ。国際情勢、宇宙開発、組織論、人生設計。しかし人類は最終的に「この肉、何秒焼く?」という極めて局所的な問題に戻ってくる。マキマなら「チェンソーマンはね」と語り始めそうだが、私は「焼肉はね」と語りたい。マチュなら「アンキーが言ったんじゃないか!」と言い、トリコなら未知の食材を求めて旅立つだろう。私は旅立たない。追加注文する。これは意思決定ではない。もはや本能である。 肉を食べる。ユッケを味わう。焼き網を囲み、会話をする。その瞬間、料理は単なる栄養ではなく、人間同士を同じ火の前に座らせる装置になる。これは小さな食卓でありながら、ある意味では世界の縮図だ。新世界構文で言えば、ここから新世界が始まる。ヒンメルなら「いい店だった」と微笑むだろう。フリーレンなら、何年後かにこの味を思い出すかもしれない。私は明日の昼に思い出す。 結局、焼肉とは何なのか。答えは簡単だ。良い肉を焼いて、良い香りを立てて、良い状態で食べる。それだけなのに、人はそこへ幸福、友情、努力、営業、哲学、宇宙まで勝手に詰め込んでしまう。だが、それでいい。食卓とは、人生を少しだけ大げさに語っても許される場所なのだから。 ごちそうさまでした。次に来たときは、もっと肉を食べたい。世界を皿に載せる必要はない。今日の皿だけで、もう十分に世界だった。 ……あと白飯ください。