卵黄、ねぎ、そして国家運営
今日は普通に飯を食べに来ただけだった。福岡・祇園町の「博多屋台居酒屋 中村屋」。名前からして、屋台文化の情緒と居酒屋の大衆性を一枚の暖簾に圧縮したような店名である。今回いただいたのは、写真からも分かるほど具材が豪快に盛られた麺料理。麺の上には大量の青ねぎ、海苔、ごま、卵黄、そして肉。さらに脇にはマヨネーズ。情報量が多い。だが、いいゾ~これ。 まず麺。細めの麺が皿の上で幾重にも折り重なり、卵黄を崩せば黄金色のソースが全体へ浸透していく。青ねぎの清涼感、ごまの香ばしさ、海苔の磯香、肉の旨味が順番に現れ、最後にマヨネーズが「私もいます」と横から参入する。味覚の交響曲というより、交響曲の演奏中に突然バイクで入ってくる人である。ファッ!?となる。しかし混ぜる。とにかく混ぜる。これが正解なのかは知らない。はっきりわかんだね。 一口食べる。卵黄のまろやかさが麺に絡み、ねぎの辛味と香りが脂の重さを受け止める。ごまが細かな香ばしさを添え、海苔が味の輪郭を引き締める。肉は麺とは異なる噛み応えを持ち、単調になりがちな一皿へ時間的な起伏を与えている。これは単なる麺ではない。具材同士の相互作用によって成立する、食卓上の小宇宙である。……などと評論家みたいなことを書いているが、要するに「混ぜたらうまい」。それ一番言われてるから。 ここで突然、国家運営について考えた。国も麺も、構成員がバラバラでは一体感がない。ねぎだけでは国家にならず、卵黄だけでも国家にならない。肉、海苔、ごま、麺、マヨネーズ。それぞれが己の職務を果たしながら、一つの皿を形成する。つまり組織論である。まずうちさぁ、麺あるんだけど……混ぜてかない? やりますねぇ! 経済学的に見れば、これは資源配分の問題でもある。卵黄をどこまで崩すか、ねぎをどれだけ麺に絡ませるか、マヨネーズをいつ投入するか。意思決定の連続である。会社員なら会議を三回やって決めるところを、私は箸一本で即断する。悩んでいる暇はない。麺が伸びる。経営判断として極めて重要だ。 そしてネットミームが脳内を占拠し始める。「こ↑こ↓」と卵黄を指差し、「いいですわゾ~これ」と頷き、「お前どう?」と麺に聞く。麺は答えない。しょうがないね。114514と心の中で叫びながら、私はさらに混ぜる。アッー!と叫びたい気持ちはあるが、ここは飲食店なので心の中にしまう。これもうわかんねぇな。 気づけば私は、ただ麺を食べているだけなのに、福岡の食文化、屋台という都市文化、会社組織、経済学、宇宙論へと話を飛躍させていた。宇宙から見れば一皿の麺など塵である。しかし人間にとって、その塵が昼飯になり、夕飯になり、記憶になる。銀河の運命を変えなくても、今日の腹を満たすことはできる。むしろ腹が減っている人間にとって、宇宙より麺のほうが重要である。悔しいでしょうねぇ。 さらに、麺を持ち上げた瞬間に立ち上がる香りにも妙な説得力がある。油の丸み、ねぎの青さ、海苔の香ばしさが鼻腔を通過し、脳へ「食事を続行せよ」と指令を送ってくる。これは官能ではなく行政である。脳内閣が満場一致で可決した。異議なし。 店名に「屋台」とあるだけで、私は勝手に博多の夜を想像する。街の灯り、行き交う人、酒、料理、そして目の前の一皿。だが、ここで壮大な歴史を語り始めるとRettyではなく卒論になるのでやめる。読者も困る。私も困る。麺だけ食べていればよかった。お前どう? いや、私が悪かった。 冷静に戻る。今回の一皿は、ねぎの爽やかさ、卵黄のコク、ごまの香ばしさ、海苔の風味、肉の旨味、マヨネーズの濃厚さが重なり、食べ進めるほど味の表情が変わるタイプ。具材が多いので、最初は華やか、混ぜると一体感が増し、後半はそれぞれの風味が麺に馴染んでいく。見た目にも食欲を刺激される一皿だった。 誰かと福岡で気軽に食事をしたいときにも、こういう料理は強い。難しい説明はいらない。目の前に皿が来たら、混ぜる。食べる。うまい。以上。人間は時として、このくらい単純でいい。 一皿の料理は、世界を救わない。国家も変えない。宇宙船にもならない。それでも、空腹だった人間の一日を少しだけ良い方向へ動かすことはできる。食事とは、そういう小さな奇跡の積み重ねなのだと思う。中村屋でいただいた麺は、そんな当たり前の幸福を、卵黄とねぎとごまで力強く教えてくれた。 ごちそうさまでした。いい店、いい一皿、いい夜だった。そして私は満足した。 なお、最後まで読んだ人には申し訳ないが、結局いちばん言いたいのは「マヨネーズ、そこにいたんかい」です。
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