いとをかしき皿、腹は減りけり
神楽坂のあたりにて、ひと息つかむとて歩きける折、「Gather by UNPLAN」なるところに至りぬ。されど、これ、ただの食事処と思ひてはあやまちなり。写真に見ゆる「SOLO SAUNA」の暖簾、紺青の布に金色の文字の並びて、いと静かなる御簾のごとし。これを見たる我、「なるほど、ここより俗世を離るるのだな」と思ひけり。離れない。たぶん戻ってくる。 暖簾の上には乾きたる草木の飾りあり。秋の野辺を思はする趣にて、木の葉の色も淡く、いとをかし。されど平安の女房がこれを見れば、「ここ、サウナじゃん」と言ひて終はるべし。私も同じである。文明とは進歩したのか退化したのか、いまだ知らず。 さて、食事として写真に残りたる皿を見るに、黒き器の上へ、雑穀を思はせる米を丸く高く盛り、緑なるブロッコリー、橙色の野菜、じゃがいものやうなるもの、その上に肉らしき具材、黄色き小さな実まで添へたり。色彩の配置、まことにめでたし。白き米粒の群れは雪、緑は若草、橙は夕映え、肉は……肉なり。ここだけ急に語彙が死ぬ。 米は粒立ちよく見え、ところどころ紫や赤の色も交じり、噛むほどに穀物の風味を楽しめさうな趣なり。肉らしきものは焼き色を帯び、表面に香辛料らしきもの散りて、香ばしさを想像せしむ。じゃがいものやうなるものは淡黄色にて、なめらかなる口当たりを思はせ、ブロッコリーは青々として、皿全体に清涼なる息を与へたり。げに、いとをかし。つまり、うまそう。 ここで古文の授業なら、「いと」の意味を答へよ、となるところなり。答へは「とても」である。簡単なり。では「いとうまそう」の意味を答へよ。「とてもうまそう」。満点。受験生よ、ここだけ覚へて帰れ。 また、別の器には赤き飲み物らしきもの見え、透明なるグラスには何か飲み物が入りたり。これらを前にしては、食事と休息との境目、まことにおぼつかなし。身体を整へ、腹を満たし、また静かに時を過ごす。かかる場所、平安の世にあらば、貴族は牛車にて通ひ、女房は御簾の内より「いと良き」と評しけむ。帝はどうするか。サウナに入る。たぶん。 しかも、かくも整ひたる皿を見れば、歌詠みせざるべからず。 「黒き皿 白き穀物 盛られつつ 緑の野菜 秋ぞ深まる」 ……何の歌ぞ。季語も怪しければ恋もない。選者が見たら困るべし。されど、皿を前にして歌を詠みたくなる心こそ、平安文学の醍醐味ならむ。いや、ただ腹が減りたるだけなり。 また、SOLO SAUNAと記された暖簾の「SOLO」なる文字、これほど現代的なるものはなし。平安貴族なら「ひとり」と言ひ、私は「ソロ」と言ふ。意味は同じなるものを、なぜか急に横文字になる。かくて言葉は時代を越ゆる。越えた結果、サウナである。何故ぞ。知らぬ。 もしセンター試験に出づれば、「筆者がサウナを見て感じたこととして最も適当なるものを選べ」と問はむ。選択肢A、人生の無常。B、都市文化への考察。C、食事への期待。D、全部。正解はD……ではない。全部うまそう、である。 そしてサウナの暖簾を見て、私は人生について考へたり。人は熱き部屋に入り、汗をかき、外へ出でて、水分をとり、また休む。何のためぞ。知らぬ。されど、何となく整ふ。これは人生そのものにや。働き、疲れ、休み、また働く。つまり人類は巨大なサウナである。意味はない。ファッ!? 何を言ひてをるのか、我ながらこれもうわかんねぇな。 「お前、どう?」と皿に問へば、皿は答へず。されど米はそこにあり、肉もあり、野菜もある。はっきりわかんだね。料理とは沈黙の会話なり。……いや、普通に食べればよい。やりますねぇ! さて、話を料理へ戻さん。写真から受ける印象では、炭水化物、野菜、肉らしき具材が一皿にまとまり、色の対比もよく、量も一食としてしっかりして見ゆ。特に黒い皿に白、緑、橙、茶の色が映え、視覚的な満足感が高し。サウナの静謐なる空間と合わせて考へれば、身体を休めた後の食事として、いと相性よきものに見えるなり。 食事とは、ただ腹を満たすことにあらず。その時の光、香、器、街の気配までを記憶に留めるものなり。神楽坂という古き趣を残す街にて、現代的なサウナと食事を経験する。古と今とが一つの皿に盛られたるがごとく、まことに面白き時間なり。 帰るころには、心も身体も少し軽くなりぬ。かくて私は思ふ。明日もまた生きむ、と。いとあはれなる一日なり。 なお、平安時代にサウナはたぶん無い。
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