✨裏天満の美味しい大阪のうどんランチ✨ ここのお店の前を通ると、お店から何とも言えない、うどん出汁のええ香りがしてくるんです✨ その出汁の香りだけで旨いって分かるぐらい、実際に飲んでみると、ホンマにここのうどん出汁は、めっちゃ旨いんです✨ えび天入り鍋焼きうどんも、和風ちゃんぽんも、きのこ天ぶっかけ、かつ丼も、みんな旨いです✨ 地元の人が美味しいうどんや丼もんを気軽に食べに来る、カウンター席だけの地域密着の町のうどん屋さんです♪ 自家製麺のうどんは、典型的なやらかくて食べやすい大阪のうどんです! 親子の家族経営で、あたたかい接客で美味しい出汁とうどんを、食べるとホッと出来るうどん屋さんです✨ #吉備 #手打ちうどん吉備 #出汁が旨い #大阪うどん #鍋焼きうどん #和風ちゃんぽん #きのこ天ぶっかけ #裏天満 #町のうどん屋さん #北区池田町 #天満駅 #天神橋筋六丁目駅 #天満グルメ #天満うどん #天六グルメ #天六うどん
口コミ(7)
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かけうどん350円で、ぶっかけうどん460円って、 なんでそんなに値段の差があるのかと思ったら、 薬味が多かった。 ねぎ、のり、ごま、しょうが、天かす。 天かすは抜いてもらいました。
またまたうどんである。此方「吉備」さんもそうであるが最近大阪うどんを標榜する店が増えているのではなかろうか。そもそも大阪うどんとは何なのであろうか?小生は大阪の辺境旭区で育った為うどんとの縁は60年と随分と長い。千林商店街と森小路にあった「力餅食堂」のうどんが我がうどん人生の原点である。だから「松葉屋」とか「今井」などという高級なミナミのうどん屋など知る由もなかったのである。当時のうどんを振り返ればうどんは柔らかい機械打ち、出汁は甘辛い昆布と鰹の合体味、バランスは所謂はんなりとしていて、キツネなら出汁に甘みが溶け入り蓋し抜群の味わいになるのである。讃岐うどんが入って来たのは小生が中学一年辺り、千林商店街から少し今市に向かう福島病院の辺りに出来た店が最初であった。店に入ると大鵬と柏戸の手形が壁に飾られていた。うどんは手切りで太く角が立ち今まで食べてきたそれとは全く異なるうどんであった。ただあの頃は讃岐うどんといっても今のザルや生醤油のような冷たいうどんではなく、キツネや天ぷらといった掛けうどんが主流であった。口に含んでみると硬いコシがありそれまでの柔らかい麺とは違う食感で初めは強い違和感を感じたのを記憶している。小生はその後讃岐うどんに関心が行き香川から新店が大阪に進出して来たら必ず行ってみるという癖が継続したが、我が父や母にはこのうどんは全く我慢がならなかったようである。我が両親は伊勢の出身であるからうどんと言えばあの太いだけでコシのないブニョブニョグニュグニュの伊勢うどんなのである。だから対極にある讃岐うどんは煮込みが足りないといってでったいに認めようとせず、拒否をし続けたまま死んでいったのであった。そんな父母が大阪で唯一認めたうどんが「力餅食堂」のうどんであった。昭和33.4年頃の話であるが、小学生の小生を千林商店街に連れていっては必ず深田書店で本を買い、斜め前の木村屋でアンパンとジャムパンを買い、その後「力餅」で力うどんかカレーうどんを食べる日課であった。因みに力うどんとは焼いた餅の入ったうどんでありカレーうどんは肉なしのただ刻み揚げだけが入ったうどんであった。肉入りは贅沢で頼む人は少なかったがこの店で肉カレーうどんなど注文するとさぞや金持ちになった気がした時代であった。その頃の千林商店街はダイエーが創業され大変な賑わいであったと記憶する、我国の繁栄の基礎がこの頃にあったのであろう。小生はまだカレーが苦手で大好きな蒲鉾が一杯入ったかやくうどんが大好きであった。しっぽくという呼び名を知ったのは随分後の事である。うどんの種類も今とは随分異なるように思うが、当時はきつねの他、月見、卵とじなどがこの辺では人気であった。祭日など少し豪勢な時は鍋焼きと相場が決まっていたのである。今敢えて分析してみるとうどんはあくまでも柔らかなマッタリ系のやや細麺で角のない断面楕円形、出汁は今と変わらぬ鰹、鯖、潤目鰯あたりの三種混合にたっぷりの昆布であったと回想する。醤油辛さや塩気は一切なくほんのりと甘みを感じるような出汁であった。この辺りのバランスが大阪のうどんを大阪のうどん足らしめる決定要因であろうと思うのだが如何であろうか。さて讃岐うどんの方はと言えば、その後の大阪進出は難航していたと推測する。何故なら小生関心大いに有するも新たな讃岐のうどんの大阪進出は高校時代まで数年以上無かったからである。大手前高校在学中に天満橋周辺が大きく変化する、松坂屋が誕生しその後マーチャンダイズマートビルが開業するのであった。その地下飲食店街に讃岐うどんを標榜する店がオープンした。小生にとっては嬉しかったのであろう、殆ど一日置きに通ったように記憶している。記憶を辿ればしかしこの店の出汁は何時も貧弱であった。ただエッジの効いたコシの強い不揃いの手切り麺が小生の讃岐愛を繋ぎ留めてくれたのであった。そうこうしながら本格的に讃岐うどんに嵌ったのは更に10年の歳月を経過してからであった。小生がミナミの周防町にバーを開く頃、実際はもう少し前になるらしいが、近くの笠屋町界隈に讃岐の名店「川福」さんが進出してきたのであった。これは大阪のうどん史にとって画期的なことなのである。其れ迄の大阪進出の讃岐うどんは大阪人の好みに迎合した掛けうどん系であったのだが川福さんは讃岐本来の冷たいざる系うどんで初めて真っ向勝負で攻めてきたからであった。小生の記憶が正しければ大阪にはもともとざる蕎麦はあれどざるうどんを食す習慣はなかったのではないかと思う。そもそも手打ちうどんに拘らない大阪うどんを冷製で頂いても美味かろう筈がない。その代わり夏場にはよく冷しうどんを食したものだ。素麺から派生した食べ方であろうが涼を誘うガラスの器に水を張り麺を泳がせ上からカキ氷をてんこ盛りに削り掛けたもので缶詰めのミカンや
旭区の森小路から初めて北区同心町に越してきた30年余り前、天満市場付近で食事処を探していて見つけたうどん店、以来今でも時々は利用させて頂いている。今日も久々に思い出して訪問、親父さんが今もご健在でしかもあの小さかったご子息が大きくなり一緒にお仕事をなさっている姿を目の当たりにして何だか嬉しくなってしまった次第である。ここのうどんが好きなのは出汁がいつも美味いのと手打ちのうどんが大阪的であることである。元来 大阪のうどんは讃岐の洗礼を受けるまでは柔らかいのが常であった。従って伝統を重んずるなら手打ちであっても讃岐ほどの腰の強さは必要がないと思うのである。男性的腰の強い手打ちもよいが大阪の腰の品やかな女性的麺もまた捨てがたい魅力なのであると私は思う。親父さんは研究熱心で新しいうどんも沢山創作されておられるが、小生は寧ろ懐かしいきつねやかき揚げ、天ぷら、取り分け此方のしっぽくが好きである。また、カツ丼や親子丼なども美味いし、セット物、定食もいける。この店に来て丁寧で腰の低い職人気質の親父さんの作る愛情に満ちたおうどんを頂いていると店主たるもの、如何に人となりが大切であるかということを改めてつくづく感じさせられる結果となる。息子さんも果たしてもう30歳越え、素晴らしい二代目とともにこの暖かい街のうどん屋さんがいつ迄も続いていくことを祈りたいものである。
昔からある普通のうどん屋さん。カウンターだけの小さなお店です おひとり様で気軽に入れます。天もちうどんが本当に美味しい 持ち帰りもできるので家でうどん料理する時は吉備さんのうどんは定番です。 #GWキャンペーン #Rettyビギナー