
【 ラプソディ・イン・ヒガシオオサカ 】
人生ラプソディ。彼と仕事をしてから17年がたっていた。その間に起こった出来事を懐かしみながら杯を交わす。フランクフルトのインド料理、珠海の中華料理、ラスベガスのマンダレンベイ。前回の台湾も彼と台中を旅していた。名古屋、東京、そして東大阪に流れ着いた彼の人生もまた、ラプソディである。
このお店は2回目だ。相変わらず何を食べてもうまい。「本当によく店知ってますよね」と彼はいうが、単に夕刻会社を出るときにGoogleMapの”近くのハイスコア”を調べて”東大阪でも指折り”というレビューを見て予約しただけである。
目の前には良い香りの舞茸と松茸。バイ貝の味付けやよし。イカの刺身の包丁の入れ方が素晴らしく蕩ける。カツオのたたきの皮目はバリっと炙ってあり香ばしい。こういうタタキは初めて食べた。サワラは味噌焼き。ハモは天ぷら。どれを食べても間違いなく、居酒屋よりは一つ格の高いお味である。メニューは季節を感じることができるし、仕入れの方向性も好みだ。本当に、いい居酒屋であって、それぞれのさらにハッ、とさせられる素材の旨味と”調理”という技術を感じることができる。
私も彼も、化学系の業界にいる。故に、我々が作り出すものはどちらかといえば社会での必要悪、のような扱いになる。絶対的に必要だが、環境汚染や人体影響など、年々書類の数は嵩んでいくし、ルールはどんどん増えて厳しくなっていく。
もし、違う職業が選べるなら何がいいですか、と聞かれて即答で料理人、と答えた。
料理人という職業は素晴らしい。美味しいものを作って、人を幸せにすることができる。そういう反応をダイレクトに感じられる職業と正反対のところにいる我々とすれば、自らが作り出したものを提供して人を幸せにすることができる職業は羨ましい。
いったいどれくらい修行をして、どれくらい経験を積めばこれだけの、四季を通じて正しく美味しい料理が作れるのだろうか。それぞれのお料理にお店の顔が見えるような工夫があるのは、料理人の引き出しの多さと知識の深さの現れだと思う。そういった深みが天ぷらの質や、焼き物の火加減によく現れている。
はてさて、私たちの17年間はどうだったのだろう。と二人で思い返してみて、随分酷い目にあったりもしたけれけど、補って余りある面白い事も沢山あったなと思い出せば、確かにあながちこの仕事も悪くはないのかもしれない。料理人も、食べる人がいなければ意味がない。であるならば。我々はひとまず、美味しいものを食べる側の役割にて料理人を喜ばせるというのも、悪くはない話だ。